よしじまびと ちょこっとインタビュー 斎藤國治さん

よしじまの歴史と地理

よしじまびと ちょこっとインタビュー 斎藤國治さん

みなさん、吉島の有名人といえば、誰でしょう?
今日は、よしじまびとなら知っておきたいこの人にクローズアップします!


寒河江 善秋さんを知っていますか?


「青年海外協力隊」の創設などに貢献した川西町吉島地区出身の社会活動家、寒河江 善秋<さがえ ぜんしゅう>(1920-1977)。
その寒河江 善秋さんと共に活動をされた北方在住の斎藤 國治さん<さいとう くにじ>(91歳)にお話をうかがいました。

國治さんは生前の善秋さんと親交があったよしじまびとのおひとりです。

参考リンク:寒河江 善秋(ウィキペディア)



その1 寒河江善秋さんとの出会いときっかけ

吉島地区、洲島中町出身の善秋さんが1920年に生まれてから約100年になります。

終戦後(第二次世界大戦)日本の若者が自立して生きていくことのできる社会をつくるための、青年活動に身を投じた善秋さん。吉島村から、山形県、そして全国を舞台に持ち前の能力を発揮されました。
私との出会いは、善秋さんが吉島村青年団長の時に青年団への入団を勧められたのがひとつのきっかけとなり、私が当時吉島小学校に勤務していたことから、青年団では事務局を担当することとなりました。
吉島村青年団は当時、190人の団員がいたと記憶しています。
(善秋さんと私は、ちょうど10歳い違いの大先輩です)




その2 善秋さんは地域に限らず全国を舞台に活躍

善秋さんは、山形県立置賜農学校卒業後、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練に当たり1940年豊橋陸軍予備士官学校入学、幹部訓練後、陸軍将校として部隊を率いて各地を転戦、インドネシア・ハルマヘラ島では過酷な戦争に参戦、やがて敗戦を迎え、復員されました。

復員後の諸活動、吉島村青年団長~山形県連合青年団事務局長~日本青年団協議会副会長~産業開発青年協会長の要職を通じて地域のみならず県・全国を舞台に持ち前の能力を発揮されました。
また、民間レベルでの日中交流の道を開き、当時、中国訪問団団長の立場で「周恩来」首相と会談されました。



その3 富や名声求めず、人生を楽しく

活動の拠点は、日本青年館(東京新宿)だったが、故郷に帰れば友を呼び、談笑、談義。

その後上京の機会があり、友人と共に日本青年館にお伺いし、久しぶりの対面で吉島地区の情報を差し入れ、色々アドバイスを頂き有意義なひと時、善秋さんの活躍状況みやげに帰りました。
善秋さんは仕事だけでなく、人生を楽しむため「遊び」を極める人で、家には窯を設置し、陶芸、人を誘っては「ほんものを食う会」、趣向等々で楽しんでおられました。

残念ながら、白血病を患い、56歳の短命でしたが人生を楽しんだ方でした。



その4 善秋さん、吉島っ子に何を望むのかなぁ~



善秋さんの教えを受けた一人でしたが、それもほんのわずかな時期を過ごしただけなのに、今こうして振り返った時、その時々の言葉や地域の動きが将来にどうつないでいくべきか、特に若い世代に暗示を与えているような感じがしたところです。時代は変わっても、その時代を生きる若き青少年が、地域を愛し自立して生きる社会を創って欲しいと思いますよ。

!! 頑張れ、吉島っ子 !!

善秋さんは、仕事の関係で東京に住んでいましたが、子育ての時期は、奥様が洲島の家を守り、吉島小学校に在学したお子さんもいらっしゃいました。




その5 私の好きな座右の銘(國治さんの好きな言葉)


温故知新

昔のことをたずね求めて、そこから新しい知識・見解を導くこと



斎藤國治さん、善秋さんのことを教えていただき、ありがとうございました!

参考資料として、國治さんご自身の資料のほか、故・舩山達郎氏からの資料、町報かわにし2020年8月号、寒河江善秋・生誕100年記念記事を参考につづっていただきました。